高齢者施設の中にある通所介護事業所(デイサービス)に勤務していた時の話です。
ハルさん(仮名)という88歳の女性が、週に3回ほど私の勤務するデイサービスをご利用になっていました。
ハルさんは18歳で農家である現在の家に嫁ぎ、家業である米作りをしながら
家事一切を一人で切り盛りし、5人の子どもさんを育て上げた肝っ玉母さんです。
85歳まで畑に出ていたというのがハルさんの自慢で、「ほら、見てくだっせ、この手」と、
自分の手のひらを差出し、私たちスタッフの手のひらと重ね合わせると、
「ほう、あんたの倍はあるなぁ」と嬉しそうに笑います。
長い間力仕事をしてきたと分かるその分厚い手のひらはフワフワと柔らかく、
私たちもハルさんに手のひらを差し出されるのが楽しみでした。
ハルさんの畑仕事が85歳で終わってしまったのは、
高齢者によくある腰痛と膝の痛みが原因です。
長年畑で腰を曲げて作業されてたんだろうな、
と一目で分かるほど、ハルさんの腰はくの字に曲がり、
膝は軟骨がすり減っているため立ち上がるだけで激痛が走る状態でした。
リハビリで歩行できるようになるという段階は既に過ぎていて、
膝の痛みを取るにはもう手術しか方法がなく、ハルさんの年齢を考えると、
薬で痛みを和らげながら、極力無理せず過ごすのがベストだろうという医師の判断でした。
人一倍働き者だったハルさんにとって、「無理せず過ごす」ことほど辛いものはありません。
数年前、私たちのデイサービスに通いはじめた頃のハルさんは、
いつも怒ったような顔をしていて、私たちスタッフが話しかけても「はい」とか「いやです」とか、
一言で会話を終わらせる、なんだか怖いおばあちゃんでした。
まず私たちは、なんとかハルさんを笑わせる事を目標にしました。
ご家族に、ハルさんの好きだったことや、お若い頃の話を伺うと、
「とにかく働き者で、体が丈夫なことが何よりの自慢だった。
畑仕事と花を育てる事が大好きで、庭はいつもおばあちゃんの育てた花でいっぱいだった」
という答えが返ってきました。そこで私たちは、
施設の庭にある花壇のお世話を手伝ってもらう事にしたのです。
「ハルさん、お花づくりが得意なんでしょ?
ここの花壇のお世話、手伝ってもらえないですか?」と声をかけると、
怖い顔のハルさんが益々不機嫌な顔になり、
「こんな体で、何ができる」と、目も合わせずに答えます。
あちゃ~。これはいかん。私は腰をぐっと落として
ハルさんの前に回り込み、少し強引にハルさんと目を合わせると、
「ハルさん大丈夫!車椅子で連れてくから、
そこから私に指示だけしてください」そう満面の笑顔で話しかけました。
しかしハルさんの表情は変わりません。「嫌ですか?」と尋ねると、
いつもなら嫌なことは「嫌です」とはっきり言うハルさんが黙ってそっぽを向いています。
よし。これはゴーサインだと判断した私は、
「よかった~!じゃ、行きましょう」と、ハルさんを車椅子に乗せ、中庭の花壇にお連れしました。
木陰の涼しい場所にハルさんの車椅子を停め、私と同じ麦わら帽子と軍手をハルさんに着けます。
久しぶりに軍手を着けた事が嬉しいのか、
ハルさんは両手を鼻の前に持ってきて軍手の匂いを嗅いでいます。
私は黙って作業を始めました。枯れてしまった花を抜き、黙々と雑草をむしります。
ハルさんは、そんな私を車椅子からじっと眺めています。
「あんた、働きもんね」「ハルさんにはかないません」
「こんな体じゃなかったら、このくらい私がすぐ綺麗にできるんに」
「できますよハルさん。ほら、これ持って」
私はホームセンターで調達してきたマリーゴールドの苗をハルさんの手のひらの上に乗せました。
「届かんよ」「届きますから、ほらやってみましょう」と、手を添えて苗を土の上に置きます。
ハルさんが作業しやすいように、低床の車椅子に乗せ換えていたことが功を奏し、
ハルさんは久しぶりに土に触れることが出来ました。
「きれいなこと」ハルさんが嬉しそうにマリーゴールドを眺めています。
私はこの気持ちを途切れさせないために、
用意していたマリーゴールドを次々とハルさんに手渡しました。
時間にしたら30分にも満たない、ほんの短い間の事でしたが、
土に触れ大好きだった花を植えたその日から、
ハルさんの表情はぐんと明るくなり、それと同時に私たちスタッフとの距離もぐんと縮まったような気がします。
大地に手が届く低床の車椅子をハルさんはとても気に入ってくれました。
膝は痛いけど足を動かす事は出来るハルさんに、
座ったまま足こぎする方法を教えると、ハルさんはすぐにそれをマスターし、
それまで無表情で座っているばかりだった状態から、
一人でデイフロアの中を行ったり来たりするようになりました。
身体の自由は心も自由にしてくれる、そんな事を教えてくれた気がします。
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